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ブリタニーメイナード 安楽死 死に方は選ぶことができるのか? [社会なう]

ブリタニー・メイナードさん。10月6日に動画投稿サイトで安楽死をすることを予告しました。

その予告通り11月1日に安楽死は実行され、ブリタニーさんは旅立ちました。

死に方の選択という意味での賛否の議論が巻き起こったことは言うまでもありません。

彼女の病気は悪性の脳腫瘍で4月には医師から余命半年と宣告されていることが、

安楽死をするという直接的な理由となっています。
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国内でも死に方の選択は可能なのか?という面でも議論をよんでいます。

ここでおさえておきたいことは、死ぬ権利ではなく生きていく方法の選択というほうが、

より、理性的な議論ができるように考えています。

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死に方」の選択とか「死ぬ権利」ということに言及すれば、

自殺との関わりを避けて通ることはできません。

身体的に生きて行く希望が無い場合と、精神的に生きて行く希望が無い場合と、

どちらが重く、どちらが優先かとは決めることはできません。

死に方の選択として、意識も無い、肉体的のも健全な状態を保つことができない事象に遭遇した場合、

また、将来その可能性が高い場合に、どのような生き方の選択ができるかということです。

ただ、このような現象が病気由来でなくても、今「生きて行くこと」の影響から

健全な肉体の状態を保つことができない、という極限状態の可能性もあります。

その時に選ぶ、自殺安楽死)が責められる選択なのか、答えは出せません。

肉体的、精神的な苦痛から逃れるために「死に方」を選択するということを安楽死とすれば、

自殺との大きな差は無くなるのでは・・・

自殺安楽死との差を見いだすとすれば、「不治の病」が大きな分岐点となりますか。

精神的に追い込まれ病気になっても「不治の病」とはちょっと違いますから。

ただ、厳密に言えば、奇跡が起きることもあり、「不治の病」の定義も難しい・・・

他にあるとすれば、倫理観、宗教的な制約ということもあります。

少なくとも一神教の宗教の場合は「神より与えられた命」と言う点では差異はないはずです。

このような宗教を信仰している人は与えられて命を全うすることが今世の義務のはずです。

安楽死は明らかにそれとは違います。安楽死も自殺の同じなのでは・・・

ある種の宗教では教義を体現するためには手段を選ばない的な考えもあるようで、

自爆的な死に方もその手段に入っているようですが・・・

このようにたとえ限定的な未来しか残されてないとしても、

今、精神的にも肉体的の健全な場合は安楽死と自殺を明確に分けることはできず、

ブリタニーさんのような形での安楽死を肯定する条件を見いだすことはできないような気がします。

やはり、自殺を肯定することはできません。


では、安楽死という概念は存在してはいけないのか?

現実として、ブリタニーさんのケースは何を訴えているのか?

ブリタニーさんの場合は脳腫瘍で余命半年という診断が安楽死という選択の最大の原因でした。

病気のために自分が自分でなくなる前に、自分自身で今の命に終止符を打つ、ということでした。

その判断を家族が指示してことから、自分で命を絶つことが安楽死という呼び方になりました。

これが理性的に判断して、今、安楽死に値する状況なのか・・・

「今ではない」と言わざるを得ません。

ブリタニーさんという命の可能性は少なくとも半年はあったはずです。

奇跡が起こらない、とは誰も言うことはできません。意外と半年経っても元気かもしれません。

そのような話はいくらでもあります。

ただ、半年経てば本当に今の「自分」ではないことのほうが可能性は高いです。

今の時点で、病状などの自分の状態の定義して、半年後にそのような状態にあれば、

安楽死(この時点では尊厳死というほうが正しいのかもしれませんが)という選択でもよかったはずです。

このようにブリタニーさんの現象から考察しても「安楽死」の選択肢は無いです。

生きることに選択があるとすれば、尊厳死に定義される「生」が、

ギリギリな命の選択と言わざるを得ない。

ちょっと当たり前すぎるオチになってしまったことは、我ながら不本意ではありますが、

自分にもこのような常識人の一面があったのか、と苦笑しております。

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この事件?と同時期に同じような手術ができない箇所の脳腫瘍で、余命が12月までと宣告された

アメリカの女子大学生バスケットボールプレーヤーのローレン・ヒル(19)のケースが報道されました。

ローレンさんの症状が悪化している中、出場したローレンさんは、見事4得点をマークする活躍を見せた。

「これが最後の試合だとは考えていない。車いすになっても、何が起きても、チームを支える」と話した。
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このように積極的に病気と対峙しているケースと消極的な選択のブリタニーさんのケースは

比較対象のように報道され、

生きる選択が善、死ぬ選択は悪のようなイメージでの「作り」になりがちですが、

この番組(報道)には、腑に落ちない、違和感を感じます。

生きていることが正常で、死ぬことが異常というような概念への違和感なのか・・・

この「気持ち悪さ」はどこに原因があるのかは、よくわからない・・・というのが本心です。


安楽死については非常に常識的なオチになった、と先に書きましたが、

病気になって早死にする人も、誰よりも長生きする人も、自殺をしてしまう人も

その命には使命があり意味がある、と考えています。

命を選択したような気になっていますが、

その選択することさえも定められた設計図に沿って、行動しているに過ぎない、と考えています。

これを運命といういような言い方をすることもあります。

また、「運命は自分で切り開くことができる」なんてことも言います。

この切り開いた未来も定められた設計の通りなのです。

また、「運命ならば何を努力してもしかたがない」なんて言う人もいます。

その努力をするか、しないかを選んでいるようですが、するか、しないかも決まっています。

生まれてから死ぬまで全て決まっています。自分で考えて選択したようでも、それも定められています。

これは個人の意思や思考は「生き方」の決められた設計図になんの影響もありません。

全く影響がないということは、裏を返せば、個人が選択した「生き方」に

誤り」は存在しない、ということです。

運命とか設計図とか余計なことを考えずに、

「一生懸命悩んで、選択する」それがベストということなのかなぁ。



このような思考の私が生き方死に方を論じることに無理がある、とここまで書いて

やっと気がつきました。

ここまで長文にお付き合い頂いた人にはこんな「結び」ですいません。
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